Film 2:『ブレードランナー 2049』と写真

映画『ブレードランナー』続編『2049』は現実と地続きだ

 

Film 2 × Photography

 


www.youtube.com

人類史上初のレプリカントの「ポートレイト写真」が登場!

 

 

  

 ノスタルジーさからも遠い世界の中で

 

 映画『ブレードランナー 2049』は、旧作『ブレードランナー』(オリジナル版 1982)で時代設定された二○一九年からちょうど三○年後の世界が描かれた。

舞台のロサンジェルスレトロフィッティングされた光景は、さらに光と闇を増し、もはやカオスに溢れたノスタルジーさからも遠い。

 

オリジナル版の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリプ・K・ディック)にも描かれているように、食物は合成食品ばかりとなり、本物の動植物はほとんど絶滅、存在したとしても一般人には手の届かない高額で希少なものと化している世界が広がる。

 

 

 映画の序盤、ロサンジェルス市警に所属する捜査官ブレードランナーK(正式には、KD6-3.7 ライアン・ゴスリング)は、ロサンジェルス郊外でひっそりと暮らしていた残党の旧型レプリカントを処分する。

 

ブレードランナーKは、オリジナル版の捜査官リック・デッカードハリソン・フォード)と異なり、自分は人間ではなく、人間や組織に従順な新型レプリカントであることを認識している。

捜査官の新型レプリカントによって旧型レプリカントが追走され処分されているのが二○四九年なのだ。いったいなぜそんな事態になったのか。二○一九年から二○四九年までの空白の三○年に何が起こったのだろう。

 

 

 『ブレードランナー 2049』のプロモーションの一環として製作された短編アニメーションによるスピンオフ作品 『ブレードランナー ブラックアウト 2022』(註1)がある。そこにその間に起こった重要な出来事、人間と地球の転換点となった事態がタイムラインの様に描かれているのだ。

 

 二○一九年の三年後の二○二二年には、オリジナル版に登場したネクサス6型のレプリカントのすべてが製造から四年の寿命年限を迎え姿を消していた。タイレル社は、ネクサス6型の代わりに最新型レプリカント・ネクサス8型を開発する。

 

その8型にはなんと寿命設定がなく、人間と同様の寿命を迎えられるように設定されていた。活動の場所が、過酷なでの奴隷労働でなく、気候変動や巨大津波、核爆発で生態系が崩壊した地球こそが活動舞台となり、窮地に陥った人間の「補完的労働者」として製造されたのだった。

 

 

 

ネクサス6型の経験から、レプリカントの心の不安定さとそこからくる反乱を避けること。これが生存環境の悪化が止まらない人間にとって急務だったのだ。寿命が延びたレプリカントにとっても、人間にとってもいっけん幸福な関係が築かれたはずだった。

 が、その関係はまたもや数年しかもたなかった。今度は人間の方が反乱し始めたのだ。ここは地球であり人間ファーストではないのかと。人間の方がレプリカントとの平等性に否を突きつけ、世界各地で「人間至上主義運動」が起こされたのだ。データからレプリカントだと発覚すれば、たちどころに〝解任〟対象として、処分される事態となっていた。

 

 

 人間の大転換点となったクライシス

 

 映画『ブレードランナー 2049』のオープニングに語られた地球規模のクライシスが発生したのはちょうどその頃だった。二体のレプリカント(戦闘用と慰安用のレプリカント)が、人間によってレプリカントの存在が探知され、虐殺されないようデータの破壊を計画。

核弾頭ミサイルをの位置で爆発させ、その電磁パルスでロサンジェルス一体の電子機器を破壊。さらに二体はデータセンターを襲撃しバックアップシステムも徹底的に破壊したのだった。

 

まるで現在の世界状況を予感するような世界が描かれてます。2049に「写真」が果たしてどんな形で描かれているのか。ご覧になった方も多いかと思いますが記憶されてますか。そうなんです、えっ、、まさかっ!というシーンでしたね。

これからすごく面白くなっていくシーンが続きますが、続きはすべて載せることができないので、以下の電子書籍『映画×写真』(by Voyager Press・理想書店/ ShINC.BOOKS 2021)にアクセスお願い致します。もう少し立ち読み可能です。また電子書籍としてご購入もできます。

Film 1:『ブレード ランナー』と写真

SF映画の金字塔の一作
『ブレード ランナー』と写真 

 Cinema 1 × Photography

 

         

  皆さんご存知のあのレプリカントたちは、宇宙植民地から地球へと侵入した訳とは、「写真」と深くかかわっていたことに気づかれていましたか?

 


www.youtube.com

オープニングシーン

 

 二十一世紀初頭の酸性雨降るロサンジェルスの夜景。高層ビルには、「強力わかもと」の映像コマーャルが映し出される。日本髪を結った和装美人の微笑。琵琶による和の調べが妖しく流れる。 

 

 中空から不思議な角度でとらえられた日本女性の艶やかな笑みは、原色のネオン瞬くロサンジェルスの夜景をさらに妖しく彩る。空中に屹立するマヤ神殿風の巨大建築物。夜空を自在に飛翔するヘッドライトを灯したスピナー(飛行車)や空飛ぶ巨大広告飛行船(シド・ミードのデザイン)は、当時、近未来のイメージを決定づけたといえるほどの衝撃だった。

 

上空を支配する科学物質文明とアジア的屋台がめくの下界。邦楽(「千鳥の曲」)はその両世界に響く都会の潮騒だ。

 

 

 本作の物語の中軸は、で奴隷労働に反旗を翻し、地球に潜り込もうとするネクサス6型レプリカント4体と、地球上では非合法な存在とされる彼等を仕留める任務を負ったロサンジェルス警察の専任捜査官ブレードランナーハリソン・フォード)の追走劇にある。

 

 

レプリカントを製造し宇宙植民地に派遣したタイレル社で秘書をする美人レプリカント、レイチェル(ショーン・ヤング)とのい恋愛劇は、人造人間アンドロイド(=レプリカント) と人間との違いの消失点(ヴァニッシング・ポイント)を描き、物語に奥行きを与えている。

またや人工蛇、建築群やそれを見つめる緑色の瞳の持ち主など、この映画は他の追随を許さないほどの様々な謎に満ち溢れている。

 

 

  「写真を持って来たか」と問うレプリカント

 

 

   じつはあらためてディレクターズ・カット・ヴァージョン(1992)を観て記憶が喚起されるまで、今回記したことの多くは記憶かられてしまっていた。人はまったく忘却の生物だ。その忘却の成果なのか自分の記憶の悪さからかと思った時、私は少なからず震撼した。

記憶(過去)の欠落を補うために写真を欲するレプリンカントのように、私は再び映画を観て記憶を獲ようと思ったからだ。わたしの感情はレプリンカントさながら不安を打ち消そうと波打ってしまっていた。

 

Blade Runner

 

  以下記してみたのは、記憶の欠如を補うため再度映画を観て確認がとれたものだ。舞台が二十一世紀にもかかわらずオールドメディアのプリント「写真」が出てくるシーンが意外に多くある。しかも物語の中枢に繋がる部分においてなのだ(註1)。皆さんはどれほど記憶されておられるだろうか。

 

   最初の場面は、レプリカントのリーダーであるロイ(ルトガー・ハウザー)が、もう一人のレプリカント、レオン(検査官に感情移入テストを実施された中年の男。宇宙植民地では核施設の肉体労働者)に、街中で突然「写真を持ってきたか?」と問うシーンだ。レオンは自分の部屋に誰かがいたために写真を持ってこれなかったことを告げる。ロイは悔しそうな顔をして立ち去っていく。

 

この場面は注意深く観ていないと何のことやら記憶に残らないしさっぱり分からない。数シーン後にその理由が明らかにされている。その場面とは、ロイではなく、タイレル社の秘書レイチェルとブレードランナーのデッカートが登場するシーンだ。

 

これからすごく面白くなっていくシーンが続きますが、続きはすべて載せることができないので、以下の電子書籍『映画×写真』(by Voyager Press・理想書店/ ShINC.BOOKS 2021)にアクセスお願い致します。もう少し立ち読み可能です。また電子書籍としてご購入もできます。

store.voyager.co.jp

 

 

はじめに:「映画」×「写真」その密やかな関係性

このアートバード・ブログでは、「映画」と「写真」の興味深い、抜き差しならばい関係を、とくに「映画」の中で、どの様に映し出されてきたかを紹介します。

 

「映画」好きにも、「写真」好きにも、もちろん両方関心をもたれている方にはとくにお勧めのブログになっています。ぜひお時間が許されましたらのぞいてみて下さい。

 

『映画 × 写真』Photographs in Films

 

はじめに:

 

 もうずいぶん前になりますが、『「写真」って何ですかね?』 と、当時、中目黒にあった小さな古書店を訪れる若手写真家からしばしば訊ねられた。私は、『うーん難しいなあ。この「写真集」何度も見るんですけど、いい写真って、写真集もいかしてませんか? レイアウトもきまってるし、なんといっても構成と編集がいいですね』とかなんとか返していた頃だ。結局、「写真」って何だろう、という思いだけはのように溜まる一方だった。

 

 

 そんなとき偶然に一本の映画を観た。オードリー・ヘップバーンフレッド・アステアが主演の『パリの恋人(ファニーフェイス)』だ。その翌週、ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』、翌月、『ブレードランナー』のディレクターズカット版を観た。どの映画にも「写真」が思わぬ形で登場していた。

 

 当然ではあるが、それらは写真まずありきでつくられる「写真集」とは視座がまったく異なるものだった。映画の中に映し出される写真は、写真の良し悪しにおよそ関係なく、川底に見える「石」のようになんともミステリアスで謎めいていたのだ。

 

 

 ここに取り上げた映画は、偶然に出会ったものもあれば、以前観ていたものから記憶を辿って再び巡り合ったものもある。時にさりげなく、時に大胆に登場する「写真」を、まるで〝発見〟でもしたかのように驚いたり、監督のセンスのよさや見せ方に膝を打った。どの場面においても、カメラや写真は流行りの小道具のような扱いではなく、作品の世界観を成立させる不可欠な要素になっていた。

 

 どんなに印象深い映画でも、時がたてば思い出すのもままならない。映画は「夢」の如きもの。夢もまたあてどなく、『夢はシネマトグラフィー(映画)のように構造化されている』といわれることもある。

 

 相照らすような「映画」と「夢」には一つ共通するところがある。どちらも思い出す時、動画的ではなく静止した「写真」の様に思い出したりしないだろうか。「写真」は、「記憶」ではなく、記憶の「方法」にこそ繋がりがあるのかもしれない。

 

 写真が急速に大衆化し始めた時代の映画『恐るべき子供たち』から、デジタル写真がく浸透した後の『ブレードランナー2049』 に至る約百年のタイムスパンの中、「写真」メディアの取り扱い方、社会的・心理的意味合い、映画へのあらわれ方にはかなりの変化がみられる。それは社会や文化が大きく変わったというだけではない。昨今「人新世」と言われるように、文明が、そして人間の側が大変革をきたしているのだ。

 

 

 何か予期しない光景を目撃した時、まるで「映画のようだ」だという機会が多くなってきている。現実感が溶解し、まるで「映画」のように、時に「夢(悪夢)」のように感じられるのだ。私たちはそうした光景を咄嗟に記録しようとする。そうして「夢(悪夢)」の断片が光の速度で世界に伝播してゆく。私たちの「夢」の見方もまた変わってきたのだ。

 

 写真は「光の化石」(森山大道)とも言われるが、こと映画の中に現れる写真は、「夢の化石」なのかも知れない。映画が終われば消えてしまうのだから。

 ここに表したのは、滔々と流れる映画の川底から見つけてきた「夢の化石」についてのことである。

                                                                    加藤 正樹