はじめに:「映画」×「写真」その密やかな関係性

このアートバード・ブログでは、「映画」と「写真」の興味深い、抜き差しならばい関係を、とくに「映画」の中で、どの様に映し出されてきたかを紹介します。

 

「映画」好きにも、「写真」好きにも、もちろん両方関心をもたれている方にはとくにお勧めのブログになっています。ぜひお時間が許されましたらのぞいてみて下さい。

 

『映画 × 写真』Photographs in Films

 

はじめに:

 

 もうずいぶん前になりますが、『「写真」って何ですかね?』 と、当時、中目黒にあった小さな古書店を訪れる若手写真家からしばしば訊ねられた。私は、『うーん難しいなあ。この「写真集」何度も見るんですけど、いい写真って、写真集もいかしてませんか? レイアウトもきまってるし、なんといっても構成と編集がいいですね』とかなんとか返していた頃だ。結局、「写真」って何だろう、という思いだけはのように溜まる一方だった。

 

 

 そんなとき偶然に一本の映画を観た。オードリー・ヘップバーンフレッド・アステアが主演の『パリの恋人(ファニーフェイス)』だ。その翌週、ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』、翌月、『ブレードランナー』のディレクターズカット版を観た。どの映画にも「写真」が思わぬ形で登場していた。

 

 当然ではあるが、それらは写真まずありきでつくられる「写真集」とは視座がまったく異なるものだった。映画の中に映し出される写真は、写真の良し悪しにおよそ関係なく、川底に見える「石」のようになんともミステリアスで謎めいていたのだ。

 

 

 ここに取り上げた映画は、偶然に出会ったものもあれば、以前観ていたものから記憶を辿って再び巡り合ったものもある。時にさりげなく、時に大胆に登場する「写真」を、まるで〝発見〟でもしたかのように驚いたり、監督のセンスのよさや見せ方に膝を打った。どの場面においても、カメラや写真は流行りの小道具のような扱いではなく、作品の世界観を成立させる不可欠な要素になっていた。

 

 どんなに印象深い映画でも、時がたてば思い出すのもままならない。映画は「夢」の如きもの。夢もまたあてどなく、『夢はシネマトグラフィー(映画)のように構造化されている』といわれることもある。

 

 相照らすような「映画」と「夢」には一つ共通するところがある。どちらも思い出す時、動画的ではなく静止した「写真」の様に思い出したりしないだろうか。「写真」は、「記憶」ではなく、記憶の「方法」にこそ繋がりがあるのかもしれない。

 

 写真が急速に大衆化し始めた時代の映画『恐るべき子供たち』から、デジタル写真がく浸透した後の『ブレードランナー2049』 に至る約百年のタイムスパンの中、「写真」メディアの取り扱い方、社会的・心理的意味合い、映画へのあらわれ方にはかなりの変化がみられる。それは社会や文化が大きく変わったというだけではない。昨今「人新世」と言われるように、文明が、そして人間の側が大変革をきたしているのだ。

 

 

 何か予期しない光景を目撃した時、まるで「映画のようだ」だという機会が多くなってきている。現実感が溶解し、まるで「映画」のように、時に「夢(悪夢)」のように感じられるのだ。私たちはそうした光景を咄嗟に記録しようとする。そうして「夢(悪夢)」の断片が光の速度で世界に伝播してゆく。私たちの「夢」の見方もまた変わってきたのだ。

 

 写真は「光の化石」(森山大道)とも言われるが、こと映画の中に現れる写真は、「夢の化石」なのかも知れない。映画が終われば消えてしまうのだから。

 ここに表したのは、滔々と流れる映画の川底から見つけてきた「夢の化石」についてのことである。

                                                                    加藤 正樹