Film 3 『小さな兵隊』by ゴダール

  Film 3 × Photographs  

        Le Petit Soldat

       『小さな兵隊』

 

 「写真が真実なら、映画は毎秒二十四倍、真実だ」 

                                                      by ゴダール

 


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出演 ミシェル・シュボール、アンナ・カリーナ

         ポール・ボーベ

公開 1960年

 

 

 「写真の相続人は映画である」ゴダール

 

 

 本作品は、の初期代表作の一つにして長篇処女作『勝手にしやがれ』(1959)に続く長篇第二作目である。制作は一九六○年だが、当時フランス政府の大きな政治課題となっていたアルジェリア問題への批判が問題視され、三年後の六三年まで公開が禁じられたいわくつきの映画である。

 

ゴダール映画の本質にある政治色はすでにこの作品に噴出しているといっていい。同時に「写真の相続人は映画である」と言うゴダールの考えが、あくまでゴダール流に、この映画にあらわれている。

 

 最初に魅入られるのは、撮影カメラマンのラウル・クタールによる硬質で透明感あふれる映像である。この時期、モノクロームで撮った夜の都市でこれほど艶やかな映像はそれほどないのではないか。暮れゆくジュネーブの空は、モノクロームなのにパウル・クレーの絵のような鮮やかさを感じさせる。

 

その前年(一九五九年)に刊行されたウィリアム・クラインの写真集『ローマ』の粒子が浮き立つようなざらついた空気感とは異なるもう一つのピクチャー美学。一秒間に含まれる二十四枚の「写真」(ピクチャー)一枚一枚がルミナスな色を放っているようだ。

    

 

 映画『勝手にしやがれ』では、二十四分の一の「写真」イメージを感じさせることは決してなかった。映画は滝壷に流れ落ちる水のように決して留まることなく流れ去っていた。

唯一映像が氷結したのは(実際には同じ写真の連続性から成立するわけだが)、エンディングで主人公のミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)が路上で撃たれ息を引き取る「死」の時であった。

 

 

対し、『小さな兵隊』は冒頭から時がいつなんどき止まってしまうかのような死の匂いが漂う。主人公ブリュノ・フォレスチエ(ミシェル・シュボール)に「女性の目的は生で、男性の目的は死だという。大切なのは死だ」と言わしめたゴダールの真意は何処にあるのだろう。

 

 

 自由と権力とカメラ

       

   主人公ブリュノはフランス情報社の通信員である。裏の顔はOAS(アルジェリアの独立を阻止するテロ組織)のだ。もっとも当時は情報関係の通信員であれば大なり小なりスパイ的な活動が要求される。

 

東西冷戦の中、ブリュノは中立国スイスのジュネーブに派遣されている。当時ジュネーブでは、各国のが公然と活動し情報収拾をしており、テロによる暗殺が繰り返されていた。脱走兵だったブリュノがそんな場所に送り込まれたらどうなるか。権力を持つ国や組織はそういう自由人をどう扱おうとするのか。

 

 

ゴダールはすでにこの第二作目で自身の映画のトレードマークとなっていく〈自由と権力〉について(一般的には政治的映画と言われる)、映像的に思考しはじめていた。

 

 この〈自由と権力〉を標榜したゴダール映画が、主人公に「カメラ」を持たせたことは、これまで特段指摘されたことはない。国家に直結する情報社の通信員、そしてスパイにとって「カメラ」は極めて有効な装置であるが、「カメラ」を自由のシンボルのように扱ったのが本作である。

 

つまり「カメラ」は「権力」に取り込まれることもあれば、「自由」を取り戻すためのともなるのだ(ゴダールにとってそれは政治や社会からだけでなく伝統的映画文化からも。そしてこの現実からも)。

 

 

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